雑な文章

ここにブログの説明を入れてください

第二回 自分を語る

自分を語る、というとあたかも自分という人間を知っているかのように聞こえてしまうが私は違う。自分についてほどんど知らない。なぜブログを始めたかさえ曖昧であるが、ある程度候補がある。実は第一回を執筆中は大学の勉強にうんざりしていた最中であって、ある意味現実逃避のためのブログなのかもしれない。これも理由の一部だと思う。

さてタイトル通りに自分を語っていこう。そもそもブログというものは、そこに事実ではなく自分の意見を書いている限り、広い意味では自分を語る媒体と捉えることができるが、あえてこのタイトルにするのである。何を伝えれば「自分を語る」ことになるのだろうか。名前や個人を特定できそうな情報はさておき、とりあえず、初対面の人に自己紹介をするつもりで書いてみたい。

私、Felix_the_Catと申します。大学二年生です。テレビゲームでfpsを少々やります。youtubeやアニメを見ます。基本的には家でゴロゴロしているのが好きです。

実際に対面している人に話すような口語で書いたから、私の容姿が見えない読者のみなさんに対してそれに関する情報をある程度記す。19歳男。4文字しか記さないのは、読者のみなさんに私という人間をイメージせずにブログを読んでほしいからである。

自分語りはなおも続く。さて、これから書く「私」がこの回で一番書きたかった「私」である。私を語るにあたってこの要素だけは欠かせないものであり、私をもっとも特徴付ける要素でもあるからだ。それは 、理由を探す、である。私の文の書き方として、ある私事を書いた直後にその理由まで書いていることはブログを読めばわかると思うが、そういう風に、自分のなすこと、なしたこと、なそうとしていることに対して理由を求める癖がある。例示するなら、ブログを始めようと思った時にブログを始める前に一旦立ち止まって、なぜ自分はブログを始めようと思ったのかを考えてしまう。一般的に言えば、何かをする前にそうしようと思った理由を見つけようとするのである。それもできるだけ合理的なものを。

人は生きている限り何かをしているのだから、その度ごとに理由を探していてはまるで各駅停車みたいな人生だと読者のみなさんが思われるのは至極当然のことであるが、私の実感として、さしあたりは快速電車と変わらない。というのも、起床、朝食、講義、昼食、講義、夕食、課題などやることはほぼ毎日同じなので毎回理由を考える必要がないのだ。

理由を考えても納得いく答えが見つからないことがある。例えばツイートである。「あ、寝坊した。」をツイートしようと思った時、キーボードを叩きながら、あるいは叩く前に考える。このツイートをする理由は何だろうか、意味は何だろうか、する必要はあるのだろうか。他の例で言えば、なぜテレビゲームをするのか。もちろんそれが楽しいからやるのだが、なぜ楽しいのかと自問してもうまく答えが見つからない。

そしてかつての私はある定義にたどり着く。自分の行為の理由を自問し続けて答えに詰まった時、それを「感情によるもの」とする。自分の中でそう定義したのであった。感情に対してwhyの問いは無意味である。なぜそのピザを美味しいと感じるのか。なぜテレビゲームが楽しいのか。なぜ取るに足らない内容をツイートしようと思ったのか。はっきりと答えは出せないから、それらをまとめて感情のせいにするのだ。そういう風に「妥協」することで快速電車とまでは行かないがある程度スムーズに生きてきた。

実はこの定義はアニメ「俺の青春ラブコメは間違っている続」の登場人物、平塚静のセリフ「計算できずに残った答え、それが人の気持ちというものだよ。


Hachiman Flirting With Sensei (Sub)

0:50」

に着想を得ている。当時悩んでいた自分に光がさしたようだった。彼女のおかげで、より正確にはそのアニメの脚本家のおかげで長年の「理由がない問題」に妥協点を見つけることができたのだから。