雑な文章

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第四回 人を避ける

私は他人に無関心である、と言っては大げさである。「気を遣う」程度のことなら人並みとは言わないまでも少しは実践できていると思っている。お年寄りに席を譲るとか前を歩く女性を早足で抜くとか。しかし「気を遣う」能力は一般より劣っていると言わざるを得ないのは、そもそも人と接する機会が少ないために「気を遣う」経験値が少ないからなのだ。この時点で読者のみなさんは私が人と接することを気を遣うことをほぼ同義で使っていることに気づくが、実際私にとってはそうなのである。そこまで気を遣わなくていいほどの間柄の人間なんて家族ぐらいしかいない。「友人」にだって失礼がないか過敏になる。つまりは他人と接することでひどく疲れるのだ。コミュニケーション障害という言葉があるほどだから、私と似た状況に陥っている人も少なからずいるのだと思う。陥っている、とは語弊があるかもしれないがそれはさておく。

もちろん人は初対面では誰でも相手に気を遣って、そのうち親しい仲になり、気を遣う必要がそれほどなくなり、一緒にいて心地よいと思えるレベルまで達するのだろう。そして時にはその心地よさの中に様々な愛が生まれるのだろう。だがしかし、私はこの最初の段階を嫌う。わかりやすく言えば、サボる。

両親は私に「そういう傾向」があることを早々に見抜いてあれやこれや助言を浴びせてくれたが、改善の兆しはない。こういうとまるで「そういう傾向」がまるで悪い状況であるかのようだが、事実その通りである。言葉を持たない哺乳類でさえ生きるためにコミュニケーションをとるというのに、ましてやヒトは社会的動物である。「そういう傾向」に付きまとわれていては圧倒的に不利である。早急に改善せねばならない。

そうは言っても嫌いなものは嫌いなのだ。私には精神的負担が大きいのだ。だからと言って精神科に出向くつもりも更々ないが。この性格ばっかりは将来治せそうもない。とても不安だ。

このブログには、今の所、世間に対する愚痴めいたことしか書いてない気がする。確かにブログを書く理由として「憂さ晴らし」がないとは言わない。しかしこういうことも含めて「私」である。今回は嫌いなことについて駄弁を垂れ流しただけに終わるが、好きなことについても以降書いて行くつもりである。

第二回 自分を語る

自分を語る、というとあたかも自分という人間を知っているかのように聞こえてしまうが私は違う。自分についてほどんど知らない。なぜブログを始めたかさえ曖昧であるが、ある程度候補がある。実は第一回を執筆中は大学の勉強にうんざりしていた最中であって、ある意味現実逃避のためのブログなのかもしれない。これも理由の一部だと思う。

さてタイトル通りに自分を語っていこう。そもそもブログというものは、そこに事実ではなく自分の意見を書いている限り、広い意味では自分を語る媒体と捉えることができるが、あえてこのタイトルにするのである。何を伝えれば「自分を語る」ことになるのだろうか。名前や個人を特定できそうな情報はさておき、とりあえず、初対面の人に自己紹介をするつもりで書いてみたい。

私、Felix_the_Catと申します。大学二年生です。テレビゲームでfpsを少々やります。youtubeやアニメを見ます。基本的には家でゴロゴロしているのが好きです。

実際に対面している人に話すような口語で書いたから、私の容姿が見えない読者のみなさんに対してそれに関する情報をある程度記す。19歳男。4文字しか記さないのは、読者のみなさんに私という人間をイメージせずにブログを読んでほしいからである。

自分語りはなおも続く。さて、これから書く「私」がこの回で一番書きたかった「私」である。私を語るにあたってこの要素だけは欠かせないものであり、私をもっとも特徴付ける要素でもあるからだ。それは 、理由を探す、である。私の文の書き方として、ある私事を書いた直後にその理由まで書いていることはブログを読めばわかると思うが、そういう風に、自分のなすこと、なしたこと、なそうとしていることに対して理由を求める癖がある。例示するなら、ブログを始めようと思った時にブログを始める前に一旦立ち止まって、なぜ自分はブログを始めようと思ったのかを考えてしまう。一般的に言えば、何かをする前にそうしようと思った理由を見つけようとするのである。それもできるだけ合理的なものを。

人は生きている限り何かをしているのだから、その度ごとに理由を探していてはまるで各駅停車みたいな人生だと読者のみなさんが思われるのは至極当然のことであるが、私の実感として、さしあたりは快速電車と変わらない。というのも、起床、朝食、講義、昼食、講義、夕食、課題などやることはほぼ毎日同じなので毎回理由を考える必要がないのだ。

理由を考えても納得いく答えが見つからないことがある。例えばツイートである。「あ、寝坊した。」をツイートしようと思った時、キーボードを叩きながら、あるいは叩く前に考える。このツイートをする理由は何だろうか、意味は何だろうか、する必要はあるのだろうか。他の例で言えば、なぜテレビゲームをするのか。もちろんそれが楽しいからやるのだが、なぜ楽しいのかと自問してもうまく答えが見つからない。

そしてかつての私はある定義にたどり着く。自分の行為の理由を自問し続けて答えに詰まった時、それを「感情によるもの」とする。自分の中でそう定義したのであった。感情に対してwhyの問いは無意味である。なぜそのピザを美味しいと感じるのか。なぜテレビゲームが楽しいのか。なぜ取るに足らない内容をツイートしようと思ったのか。はっきりと答えは出せないから、それらをまとめて感情のせいにするのだ。そういう風に「妥協」することで快速電車とまでは行かないがある程度スムーズに生きてきた。

実はこの定義はアニメ「俺の青春ラブコメは間違っている続」の登場人物、平塚静のセリフ「計算できずに残った答え、それが人の気持ちというものだよ。


Hachiman Flirting With Sensei (Sub)

0:50」

に着想を得ている。当時悩んでいた自分に光がさしたようだった。彼女のおかげで、より正確にはそのアニメの脚本家のおかげで長年の「理由がない問題」に妥協点を見つけることができたのだから。

 

 

第一回 ブログを始める

ブログを始めると言っても実感がない。そもそもブログって何だろうか。人に見てもらうために書いているという意味ではツイートと似ていると思う。もちろんそれが目的ではなくて誰に見せるという訳でもなく自分だけの日記のようなものとして捉えている人もいるのだろう。

私はブログをたくさんの人に読んでほしい。そして自分のことを知ってほしい。もちろんブログを始めた理由はこれ以外にもあるかもしれないが、あったとしても私の知るところではない。自分の意思決定の理由なんて考えたところで正確には分からないものだということは経験的に知っている。

では、どのようにブログを書いていこうか。実は私はブログを書くのは今回が初めてであるだけでなく、他の人のブログを読んだ経験が少ないのである。だからもし仮に「ブログのルール」があったとしても私は知らないし、だからといってそれをわざわざ調べるつもりもない。でも、文章のルールなら中学生程度には知っていると思う。というのも私はこの文章を書いている現時点で東京大学の学生ではあるものの、理系の人間であるし大学受験まで勉強させられていた国語の成績が低かったからである。それに最近、読書も減った。ブログを書くにあたり、人に読んでもらうことを前提にしている以上、読みにくくない文章を書くつもりである。以上が文章に関すること。ブログの更新頻度はまだ決めていない。決めたところでそれを守るかどうかも分からない。メリハリがないブログになるやもしれぬ。一回分の文字数などその他諸々について未定で、これらを決定するか否かも未定である。