雑な文章

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第11回 複雑な系としての脳

自然科学と人文科学、社会科学は区別されるが、人の脳も生物学的には自然科学の対象であるから人の思想や文化も自然科学の領域に入れてもいいのではないかと思ったことがある。しかし両分野では人に対するアプローチが違うことに気づいた。DNAの塩基配列とか神経細胞の電位など、自然科学はあくまで定性的にヒトを捉えようとする。そのため数式、方程式が登場するのは仕方ない。しかし人の思想、思考は定性的に捉えるのは難しいから人文科学という別の学問領域に任せたのだと思う。やはり粒子数が多くなるほど基礎的な方程式を解くのは困難になるし、統計学は単純な系しか扱えないからヒトの脳はそれだけ複雑なのだなぁと感じた。

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最近人工知能が話題になっているけど彼らができるのはプログラムとして組まれていることとか新しく学習したことに厳密に限られていて、新しい発想はできないのかもしれない。たとえばリンゴが落ちたあの瞬間にニュートンと同じ位置で人工知能がそれを見ていたとして万有引力の存在を思いつくことはなかったと思う。「『リンゴが落ちる。』実に単純な現象だ。今まで通り物が下に落ちただけのこと。何もここから学習することはない。」程度の思考に終わるはず。そういう意味でAIが人類を上回るsingularity dayはかなり遠いと思われる。

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この際だから以前から気になっていたことも記す。生物は不思議である。ヒトとタンパク質は明らかに違う。もちろんどちらも物理法則にしたがっている存在している。どちらも原子の集合体にしかすぎないのに、この二つを同じと言ってはいけない気がするのだ。人間は肉塊ではない。これに関連する分野には全く通じていないが、私なりに違いを考えてみた。「『考える』ことができるか否か」というのはどうだろうか。肉塊は『考える』ことはできない。しかしそもそも「考える」の定義が厳密なものではないのでよくない。だがしかしあえて『考える』を使う。

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そう私の長年の疑問は一個体が『考える』に必要な最低粒子数である。たとえば暖かいところに生息する微生物がいたとして生息域が冷たくなってきたら温かい方へ移動するが、この時たんにエントロピー増大の法則に身を任せているのではなく、移動しようという意志のもとに移動するのだから、その程度のことなら微生物も『考える』ことはできる。そのようにして「考えうる」限界を知りたいのである(洒落ではない)。ミジンコは1+1=2がわかるのか。

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なんだかまとまりのない文章になってしまって申し訳ない。